リンディの天才、Frankie Manning

 1914年生まれのダンサー、Frankie Manning はリンディホップの生きる伝説であり、スウィング・エイジの生き証人。リンディホップの発展にもっとも貢献したダンサーと言っても過言ではないでしょう。

 13歳の時に(教会をサボって)ハーレムの Alhambra Ballroom に初めて足を踏み入れて以来、フランキーは一気にダンスの世界へと魅了されていきます。憧れのサヴォイ・ボールルームに出入りするようになり次第に頭角を現してきたフランキーは、サヴォイの顔役 Whitey に目をつけられ、彼のダンスチーム Whitey’s Lindy Hoppers の一員となります。フランキーはチームのリーダー的存在であり、さまざまなコンテストやショーに出演、その後プロとして映画やブロードウェイにも出演します。ダンサーとしてだけでなく、優れたコリオグラファーでもあったフランキーは、Whitey とともにリンディホップをショービジネスの世界へ送り込みました。

 コンテストでの優勝や映画、舞台出演など華々しい経歴の他に、フランキーがダンスの歴史に残した偉大な功績が二つあります。一つは、エア・ステップを創ったこと。エア・ステップとはその名の通り、パートナーの女性を宙にほうり投げたりするアクロバティックなステップのことで、先輩ダンサーとコンテストで対決することになったフランキーは、切り札として密かにエア・ステップを発明します。コンテストでは見事優勝し、以来エア・ステップはリンディホップの一つの要となり、その派手なパフォーマンスとともに映画や舞台へと進出していきます。

 もう一つの功績は、アンサンブル。それまではパフォーマンスといっても、それぞれが勝手に踊り、即興で合わせていたダンサー達に初めて振付で合わせて踊ることを教えました。ある時、Jimmie Lunceford の Posin’ を聴いているうち、ふと曲に合わせてピタリと動きを止めることを思いついたフランキー。別の曲でもうまくいくだろうか…と試行錯誤した結果、Stops というルーティンを生み出します。以後、映画や舞台でも、アンサンブルを取り入れた数々のルーティンを創りました。

 2007年に発売されたフランキーの自伝「FRANKIE MANNING – ambassador of Lindy Hop」には、Chick Webb や Duke Ellington、Count Basie、Billie Holiday や Ethel Waters などジャズミュージシャン達との交流や、舞台やステージ裏での数々の武勇伝が書かれています。たとえば Erskine Hawkins のステージで、当時人気のあった黒人兄弟のタップダンサー、Berry Brothers を真似てステージ奥の高い所からバンドを飛び越え、ステージに着地するという技に挑戦したフランキー。思いっきり失敗してサックス奏者の譜面台に落ちてしまったのだとか!(楽譜が舞台中に散らばり、バンドメンバーは唖然…でも相当ウケたようで「またやって!」と言われたそうです。)

 Count Basie や Cab Calloway、Jimmie Lunceford などのビッグバンドと繰り返し一緒に舞台に立ち、めったにリクエストを聞かなかった Chick Webb や Duke Ellington も、フランキーのために曲を選んでくれたというから、きっとミュージシャン達から愛され、信頼も厚かったのだろうと思います。(そして Duke Ellington に別のミュージシャンの曲をリクエストして却下されたというオチも。)

 ジャズシーンがスウィングからビバップへと移行する中、フランキーは戸惑いながらもダンサーとして仕事を続けます(Dizzy Gallespie に「一体なんだこのひどいリズムは?」と詰め寄ったとか)。しかし50年代に入って多くのナイトクラブが次々に閉店、次第に仕事が少なくなっていくと、ついにダンサーとしての人生に一旦、終止符を打ちます。
 ダンサー業を引退してからは郵便局に勤めていたフランキー。完全にダンスから離れた生活を送り、当時の同僚はフランキーが映画に出演したり、世界ツアーも果たしたダンサーだとはまったく知らなかったそうです。

 郵便局に勤めてから30年ほど後、フランキーは当時のダンサー仲間に誘われてハーレムのダンスクラブに顔を出すようになります。ちょうど同時期にサヴォイボールルームのダンサー達とも再会し、その後 New York Swing Dance Society でダンスを教えるようになります。そしてある時、西海岸に住むダンサーからリンディホップを習いたいと電話が入ります。彼らがその後のリンディホップのリバイバルブームの一端を担い、また同じくリバイバルブームの中心となるスウェーデンのダンスチームとの交流もスタートします。

 退職後にブロードウェイのミュージカル『Black and Blue』のコリオグラフィーを担当し、トニー賞を獲得するとさらに活躍の場を広げます。1992年にはスパイク・リーの映画『Malcom X』に出演、スーパーバイザーを務め、1994年にはフランキー80歳のバースデーを祝って、リンディホップの一大イベントが NY で開催されました。毎年5月末の週末にはフランキーの誕生日を祝って大きなイベントやパーティが開かれています。

 90歳を過ぎた今もフランキーは相変わらず世界中を飛びまわってワークショップやレッスンを行い、ダンサー達に大きな影響を与え続けています。ちなみに息子のチャズもタップダンサーであり、リンディホッパー。親子2人のパフォーマンスも大人気です。

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 2009年4月27日、フランキー・マニング氏は亡くなりました。享年94歳でした。記事へ

Four Congaroos from Killer Diller

左側カップルにいるのがフランキー。

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