リンディホップが短期間のうちに発展、成熟し、広まったきっかけとしてダンスコンテストの存在があります。(そもそもリンディホップが生まれたのもダンスマラソンというコンテストの場だった、とする説もあります。)スウィング時代、サヴォイをはじめとするボールルームやかのアポロ劇場でも頻繁にリンディのコンテストが行われ、優れたダンサー達が技を競いあうことでリンディホップは洗練されていきました。リンディホップの象徴ともいえるエアーステップが初めて披露されたのもサヴォイでのコンテストでした。
リンディホップがハーレムの外に出て、世界に広く知られるようになったきっかけの一つが、Harvest Moon Ball というダンスコンテスト。HMB は、当時流行していたワルツやフォックストロット、ルンバ、タンゴなど様々なスタイルのトップダンサーが競うダンスのオリンピックのような大会で、名前を変えながらも1970年代まで続きます。20000席が2日で売り切れたという世界でも有数の大規模なコンテストで、 Artie Shaw や Benny Goodman の演奏で知られる「Shine on, Harvest Moon」という曲は、HMB のことを歌っています。
Daily News など新聞社のバックアップにより HMB が公式に開催されたのは1935年の夏。当初セントラルパークで開催される予定が、予想以上の人数が詰めかけたために延期となり、マジソンスクエアガーデンで改めて開催されました。
1935年にはハーレムで黒人達による大規模な暴動が起きており、緊迫した社会状況を打開するべくサヴォイボールルームで識者による話し合いが行われ、ハーレムのブラックカルチャーから生まれたダンスの代表でもあるリンディホップがコンテストの種目として取り上げられることになったと言われています。
さまざまなスタイルのダンサーが登場する中、聴衆の注目を一手に集めたのがリンディホッパーだったとか。本大会の前には各ボールルームで予選が行われますが、リンディホップ部門では常にサヴォイのダンサーが圧倒的な強さを見せます。第一回の開催以来16年の間、14回はサヴォイ選出のダンサーが優勝し、1位はもちろん3位まで独占することも珍しくありませんでした。
MCは当時 Daily News に在籍していた Ed Sullivan が務め、第一回大会のバンド演奏を務めたのは Fletcher Henderson。他に Lucky Millinder や Clyde McCoy、Artie Shaw、Woody Herman など、時代の顔ともいえる人気バンドが毎年よばれました。コンテストの模様はニュースリール(劇場などで放映された短編のニュース映像)にも収められ、断片的な映像は Youtube でも見ることができます。